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沖縄自治研究会

沖縄自治研究会

第1回講座 上

第1回『沖縄の自治の新たな可能性』
大阪市立大学大学院教授 加茂 利男 氏


はじめに
 1995年の痛ましい少女暴行事件をきっかけにして、沖縄が大田県政のもとで基地撤廃のアクションプログラムを掲げ、経済的な自立を目指した新しいプランを掲げて21世紀に向けての動きを始めたわけであります。

 これは、大きな歴史的な出来事になるのではないかと考えまして、関西を中心にした研究者のグループでチームを作り、当時、立命館大学におられました宮本憲一教授と、琉球大学の名誉教授であります久場政彦先生を中心にした研究会で、あしかけ3年に亘る調査を行いました。その調査の結果として『沖縄21世紀への挑戦』という本を、2000年に岩波書店から出版しまして、私もその末端に連ならせて頂くことができ、地方自治制度の問題を主なテーマとして論文を書かせていただいたわけであります。

 今から、改めて読み直して見ますと、やはり沖縄研究の蓄積が、久場先生や、宮本先生のようにはございませんものですから、私の論文の中には、初歩的ミスもいくつか含まれておりますし、とにかく、大きな風呂敷を広げすぎた割には、どこまで現実的に沖縄の実情とうまく繋がっているのかということになりますと、忸怩たるものがございます。そういう意味で、改めてこの論文を読むことは自分でも気恥ずかしいのですけれども、それに耐えてこの機会に皆様方に改めて、問題提起みたいなことをさせていただきたいと思っているわけであります。

 論文の一番最後がこの研究会をずっと追及してこられた、自治基本条例で終わっております。従って、その接点をよりどころにしながら話をさせていただきたいと思っているわけであります。


1、自治と自由化―研究の視点
 当時、我々は3年にわたって沖縄を歩き回り、いろんな行政の自治体関係者、それから経済界の方、住民の方、いろんな人とお話をいたしました。大田知事、吉元副知事、親泊那覇市長、当時、名護市の助役であった岸本さんにもお会いしました。読谷村の山内徳信さんともお目にかかったと思います。研究者の方々では、この研究会に属しておられます江上先生、島袋さんとか、我部政明さんなどご意見を伺いました。

 そういう中で、我々がだんだんと共通に一つの着眼点として思いつきましたのは、つぎのようなことでした。沖縄は確かに新しい21世紀に向けて自立の方向へ、言ってみれば軍事同盟のくびきを取り払って、政治的にも経済的にも自立するという決意を固めて動き始めたという感じを持っておりまして、我々もそれに大変心を打たれたのであります。しかし同時に、当時の県政が掲げておりました2つの大きなプラン、「基地縮小・廃止アクションプログラム」、それから「国際都市形成構想」、この2つが21世紀沖縄ビジョンの大きな軸になっていたと思うのですけれども、この2つの間にはかなり矛盾があるのではなかろうかという点に、我々は次第に疑問を持つようになったわけであります。

 言うでもなく、「基地の縮小・廃止」というのは、沖縄が政治的に強い自立の力というものを持たなければできないことですし、また日本全体の世論を動かし、政治を動かさなければできないことであります。アメリカという超大国の世界戦略と真っ向からぶつかりあうというか、せめぎ合うことになるわけですから、大変な重たい課題だったわけです。そういう意味で自立の
ための大きな力が必要とされる課題だったと思います。

 ところが、それに対しまして「国際都市形成プログラム」というのは、どちらかというと、経済のグローバル化・メガコンペディション時代の中で、言ってみれば沖縄をシンガポールや香港のような、開かれた自由貿易地域、自由経済地域にすることによって、外との開かれた関係をいかしながら、沖縄の経済基盤を強めていこうという発想だったわけです。これは当時のグローバリゼーションの流れの中で考えますと、わりととっつきやすいというか、ある程度もっともな考え方であったわけです。しかし、よく考えてみますと結局のところ、こういう経済プランは、国が沖縄に対して規制緩和をし、FTZ(自由貿易地域)をつくるとか、特区をつくるというような形で、特別措置を講じてくれるということ、それから、今で言う「都市再生」ということになるのだろうと思いますけども、大規模な都市開発のための公共事業費、或いはそのための規制緩和制度沖縄に対して認めるということが条件になっていたわけです。

 つまり経済の面では、外国を含めていろんな他の地域の企業、資本、人材が沖縄に入ってくることを期待し、且つそれを後押しするため日本の中央政府の政策に強く期待し、依存するということになっていたわけです。これは、これまでの基地経済とは少し性格が違いますけれども、かたちを変えた依存経済を作ってしまうことになってしまうのではないだろうかと私たちは考えました。

 基地の問題では強い自立の志向を示しながらも、経済の面では本土や外資への新たな依存をつよめるということでいいのだろうかというような疑問を我々は持つようになったわけであります。こういう疑問を共有しながらいろいろと調査をしてまわったのですけれども、だんだんとその疑問が大きくなっていったわけで、沖縄が日本の中で独自の歴史や文化を持った地域として未来の構想を作り、それを実現していくためのシステムを作っていこうという考え方が、本当にあたためられているのだろうか、蓄積されているのだろうかということについて、私は次第に疑問を覚えるようになりました。

 じつはちょうどその当時は、地方分権推進委員会の勧告をまとめる作業が進行中でございました。沖縄に関しましては基地用地の使用をめぐる公告縦覧ですとか、代理署名だとかというような、いわゆる「機関委任事務」のあり方をめぐって、県と国との間に訴訟まで起こっていたわけです。地方自治が、全国的レベルでも沖縄的な状況の中でも、非常にクローズアップされていた時期であります。当然そういう時期でありますから、私どもは自由貿易地域も大事、グローバリゼーションも大事かもしれないけども、やはり沖縄は、こういう地方分権の中でどういう地方自治の独自の制度を提案していくか、国に対して何を求めていくかということがなければいけないと考えていたわけです。ところが県庁でいろいろヒアリングをしておりますと、例えば基地用地の使用に関するこれまでの機関委任事務と言われていたものをどうするかということについて、「地方分権推進委員会に対して沖縄県として何か意思を表明されましたか。」というと、「何も意見表明しておりません。」「当然、機関委任事務が廃止されたら、法定受託事務になるであろうと考えています。」という返事が返ってきたわけです。それでいいのでしょうかと首をかしげていたんですけれども、結局、第一次勧告が出て見ますと、基地用地の使用に関するこれまでの機関委任事務は、国の直接執行事務に姿を変えてしまっていたわけです。その時点で大田知事が、非常に強い異議申し立てをされたけれども、すでに遅かったわけであります。結局、基地に関する事柄は国の直接執行事務になり県が関与することはできない、ということになってしまったのです。また沖縄が独自の自立権を持った自治体地域として、21世紀に向かって発展していくための制度デザインとか展望とかいうものを検討しておられますかと伺いますと、それは考えようと思っているんだけれども、まだ考えていないという話でありまして、全体としてはどうもこの地方自治に関する取り組みという点で、当時の沖縄県の取り組み方にはアンバランスなところがあるという感じがしたわけであります。そこで私どもは、そのことをヒントにしながら少し県政の取り組とはちょっと違った、我々独自の提案ができるのではないかと考えて調査を続行していくということになったわけであります。

 後から申し上げますように、仲地先生や久場先生、宮本先生などが沖縄の本土復帰の頃、或いはそれ以降に、沖縄には地方自治法に書かれている一般的な地方自治制度、特に都道府県の制度とは違った特別の自治制度を当てはめるというか、創造する必要があるのではないか、特別自治州、或いは特別県政を作る必要があるのではないかという提案をしておられました。そのアイデアを、90年代的な文脈でもう一度再検討してこれからの沖縄の自治の在り方について提案する必要があるとわれわれは考え、その手がかりが当時議論され始めていた自治基本条例ではないかと私は考えました。つまり分権改革によって条例制定権を拡大して、自治体がそれこそ自治体の憲法とも言えるような、基本的なことを定めた条例をつくるということに、沖縄は全国の自治体にも先駆けて着手するということが大切なのではないかということを、提案させていただいたわけであります。

 先ほど、島袋さんがスコットランドまでEメイルがきたという話をしておられましたけれども、私は沖縄のことについて、自分はあまりよく知らないという自覚がございまして、間違っていたら大変だということでいろいろな方々に印刷する前に原稿を送って見ていただきました。Eメイルで送ってみて頂いた上で原稿にしたんです。内容的にはいろいろ穴もある論文ですけれども自分としては珍しく気合の入った、気持ちのこもった論文だと思っておりましてそのことは受け止めていただいたのではないかと考えているわけであります。いずれにしても、そういう提案を私がさせていただいてからすでにもう数年が経ちました。もうすでにその間にいろんなことが動き始めていて、この提案だけでは駄目だということになってきているわけです。


2、その後の変化
 いくつかのその後の変化を数え上げてみたいと思います。何といいましても第一には1998年と2002年の沖縄県知事選を通じて、沖縄の政治構造が変わったと私は思います。

 日本全体として見てみますと、1993年の「55年体制終焉」を通して政治構造は大きく変わりました。冷戦終結を背景に、保革対立の政治の図式が大きく変わって、戦後的な政治構造から次のまだ何か良くわからない新しい政治構造に向けて変化が始まりました。

 1998年と2002年の沖縄県知事選で、本土ではいち早く崩れてしまった戦後構造が沖縄でもかなり大きく変わった、崩れたというような気が私はしております。

 保革対立政治の影が薄くなってきているなかで、県政だけではなて、沖縄の言論界の中にもこれまでの沖縄の基地問題の見方を切り換えようという意見が出てきています。今や東西冷戦がなくなってしまった中で、アメリカを中心として世界の自由民主主義的な国々が一緒になって、世界の安全を守るためのグローバルな安全保障システムというものを作り、無法国家、テロリストを共同の力で押さえ込んでいくシステムが姿を現してきているのだと考え、こういうグローバルな国際公共財としての秩序、安定、平和を築くシステムの東半球における拠点としての沖縄の役割は極めて大きく、むしろ沖縄はそういう役割を自ら引き受けるべきだという主張が有力になっています。東半球におけるグローバル安保の拠点としての役割を基礎にしながら、沖縄が国際的にも経済的や、文化や、環境保全やいろんなもののセンターとして発展できる条件を探していくべきではないかというような考え方が強くなってきていると思います。

 いって見れば現実主義的な考え方に立って日米同盟という枠を基地の撤去によって丸ごと否定してしまうというのではなくて、むしろそれとうまく折り合いをつけていくという考え方がかなり前面に出てきたのでありまして、これはやはり沖縄における戦後という時代の大きな転換を意味しているような気がしているわけであります。

 こういう政治的な変化を背景にしながら、「沖縄経済振興21世紀プラン」が動き始めて、グローバリゼーションを基調にしながら、例えば名護に金融特区を作るとか、それから那覇を中心にして都市再生プロジェクトの一環となるような大きな開発を行うとか、いろんなことが進み始めたわけであり、それと一体のものとして辺野古の海上ヘリ基地を、受け入れるということになっていったわけであります。沖縄の状況は、我々が調査をした段階から非常に様変わりしたという印象が改めていたします。

 第二に、沖縄を取り巻く国際的な環境でありますけれども、先ほど言いましたグローバルな集団安全保障のシステムというのが、やはりその後、新たな展開を遂げていると思います。アメリカの政権がクリントン政権からブッシュ政権に変わり、9.11のテロが起こり、イラク戦争が起こるというような事態の中で、グローバル集団安全保障システムの強化、世界的な常時臨戦体制がつくられつつあります。このグローバル安保体制が本当に多国間の合意に基づく普遍的な正義のより所をもった安全保障システムとして動いているのか、それともアメリカの一国主義的、帝国的な考え方で中心にして動いているのかは、大変疑わしいのでありますけれども、軍隊だとか、兵器の体系は90年代の後半に比べて、非常に強化をされ、整備・集約をされつつあるというふうに言っていいのではないかという気がします。

 テレビ東京系で、時々やっております「日高義樹のワシントンレポート」というのがありますね。NHKの元ワシントン特派員だった日高さんが、アメリカの有力な人たちをつかまえてインタビューをするという番組ですけれども、この間スレシンジャー元国防長官がインタビューの相手になっていました。そこで問題になっていたのが沖縄の問題でありまして、日高さんはアメリカの安全保障戦略の中における沖縄の地位というのは今後どうなるのだろうかということを、執拗にいろんな角度から質問していました。スレシンジャーは、最初のうちは将来に望みが持てそうな発言をしているわけですね。とにかく、東アジアの安全保障問題は完全に安定した状態ではない。北朝鮮の核問題というのもあり、中国の潜在的な脅威ということがある。従って東アジアには、安全保障をめぐる大変重要な問題が残っているのは確かだけれども、半面、中東とかアフガンとかのような非常に深刻な問題があるというわけではない。おそらく話し合いで解決のつく可能性の強い問題なので、例えば北朝鮮を巡る問題についてある程度の決着がついたならば、沖縄のアメリカ軍基地機能について見直しはできるのではないかということを言っていたわけであります。そこで日高さんは、それに食いついて、それでは北朝鮮問題におおよそ決着がついたならば、沖縄の基地は構造的に転換するというか、縮小することが可能だと考えておられるのかと聞いたのですが、スレンジャーそれはちょっと言葉としては言い過ぎであるというのです。構造が変わるというとか、Changeという言葉はあまり適当ではない、せいぜい調整(Adjust)であるというのです。つまり在沖米軍の規模がガラっと大きく変わるとか、その機能が大きく変わるということではなく、今後1世紀単位の将来を見通したときに、やはり地球全体を見渡したグローバルな安全保障システムというのが必要なことは間違いないわけで、しかも東半球、アジア太平洋地域における一番重要なベースがとりあえず沖縄にあるということは間違いない。その沖縄の役割というものを、そんな短期間に変えられるものではない。せいぜいのところ、地元にあまり負担がかからない様にできる限りの調整をするというくらいのことであると話をしていたわけであります。おそらく、アメリカの安全保障マフィアというか、安保コミュニティというか、安全保障政策の専門家たち、軍人とか、防衛政策の立案者とかいうような人たちの間に、共有されている考え方は結局そういう考え方ではないだろうかと思います。緊張緩和が進んだり兵器の近代化が進んで行ったならば、沖縄に展開している地上兵力の必要性は減るが、基地の規模は大きく縮小できるものではないというような認識なのでしょう。

 要するに、基地の機能については、これを近代化したり集約するということがあったとしても、これを大きく転換するという展望をアメリカも持っていないし、また日本政府側もそういうことを要求する考え方をほとんど持っていないと言わざるを得ないのではないかと思います。そういう意味でグローバル安保の重みは数年前と比べても一層沖縄に重くのしかかってきていると考えざるを得ない。これをどう受け止めるのが問われていると思います。
第三に、私はこの本の中で、沖縄の問題を脱植民地主義というか、民族・地域の自決の問題として改めて考え直して見る必要があるのではないかという問題提起をしたわけでございます。

 1950年代に国連憲章と人権契約ができまして、その中で改めて「人民の自決」、「自決権」というものについての定義がはっきりとされました。国連の人権規約の中には、これまで植民地というような形で従属地域を領有していた国々は、そうした地域に「自決権」を認め、「自決」をできるだけ援助するようにしなければならないという規定が盛り込まれたわけですね。これを出発点にして、いわゆる脱植民地主義の流れがスタートしたわけでありまして、一番たくさん旧植民地や従属地域を保有しておりましたイギリス、アメリカ等もそういう流れに次第に適応するようになっていったわけです。例えばイギリスには今でも14の海外領域(Overseas Territory)といわれる従属地域があるといわれております。バミューダ、ジブラルタル、フォークランドとかケーマンとか、バージン諸島、セントヘレナ島だとか、そういうところであります。いずれも嘗ては軍事基地が置かれていたところで、7つの海を睥睨したイギリス帝国の軍事的な拠点が大西洋から地中海にかけて点在していったわけですね。アメリカは植民地を領有するということはしなかったのでありますけれども、米西戦争の結果として事実上支配地域を海外に持つことになったわけで、ハワイとかグアムだとかプエルトリコだとかいうような地域だったわけですね。そういう地域をアメリカではとりあえず準州という扱いをしたわけでありますけれども、そういう地域に対してアメリカもイギリスも国連憲章、人権規約に基づいて自決権、自己決定権(Self- Determination)といわれる権利があるという扱いをしている。どこかの時点で独立するのか、それともアメリカやイギリスという国に帰属をするのか、それとも基本的な国家主権のレベルでは帰属はするけれども、強い自治権を保有するという方向に行くのか、というような選択できるという環境を作っていったわけです。

 こういう流れの中で例えば、イギリスの重要な地中海に置ける軍事拠点であったマルタ島は独立をしました。バミューダは1982年に住民投票をいたしましてイギリスに残るということを決めたわけですが、地域の基本法(Constitution)を持って独自の立法権と行政権を組織し、イギリスの国家主権、外交権とか、或いは防衛権だとかという枠の中で自立した内政の運営をするという権利を持とうとしたわけです。

 アメリカの準州でありますグアムも、チャラモ族という先住民がおりまして基地の重圧を抱えていたわけでありますけども、やはり自決権は認められており、独立運動もあります。これらの地域は大体が地中海だとか、カリブ海だとか、アジア、太平洋地域に点在をしていて、海軍・空軍基地でしたが、半面、基地の縮小に成功いたしますと、海洋リゾート、熱帯リゾートとして観光経済が発展したと言っていいのではないかと思います。

 沖縄は日本の近代化の過程の中で、日本の国民国家に強制的に編入されるという歴史をたどり、そして戦後はアメリカの軍事的な支配を受けたという歴史を経験しており、その上で1972年には沖縄自身の運動に基づいて日本に復帰をするという過程をたどってきているわけで、これを旧イギリス植民地とかアメリカの統治地域とかと同じように考えて議論できるかというと問題があるかもしれませんが、ある程度共通性があることは間違いないだろうと考えます。とすると少なくともバミューダやグアムで基地機能が整理されて、自決権が強調されて、平和経済が発展しつつあるという状況にどうして沖縄は合流することができないのか、そういう枠組みの中で沖縄について考えることはできないのかという問題提起をしたわけであります。

 こういう脱植民地的主義的な自治の動きというか、自決の動きというのはその後も少しずつ進んでおりまして、イギリスでは1999年に「進歩と繁栄のためのパートナーシップ」という白書が出、それに基づいて2002年に法律が作られまして、スコットランドやウェールズや北アイルランドに地域議会を設置して権限委譲した改革と同じような考え方で、海外領域についても、潜在的な自決権というのは認めつつ、それと併せてそこに住んでいる人たちは基本的人権をもっと強める。そしてイギリスの法律は事実上そういう地域に対しても影響を与えているわけですから、そういう法律を作るイギリスの議会に対して、ちゃんと意見表明ができるような選挙権、イギリスの市民権を与えるべきではないかというような考え方を打ち出されているわけであります。いってみればイギリス内部における自治の動きと海外領域における自治権強化の動きとが、相俟って進みつつあると言って良いのではないかと思います。沖縄は今更国連の、従属地域に関する特別委員会で自決権を認めさせてそこから話をスタートさせることになるのかどうかということになると、国際法的検討が必要になってくるでしょう。しかし、問題の共通性はあるんですね。ですから、やはりそういった角度からも沖縄問題を考える余地は残っているのではないかと依然として考えているわけであります。
第四に、地方分権一括法が2000年に施行されまして、条例制定権が拡大されるということになりました。この第一次地方分権といわれているものは、光と影がありましたが、確かに条例制定権が拡大をされて、自治立法権が行使できるようになった。お陰で、自治基本条例が沢山できているわけですね。多分、辻山幸宜さんが沖縄自治研究会で話をされたときにいわれたと思いますから、今、インターネットで自治基本条例というキーワードで検索すると何万件とヒットするわけです。そんなにたくさんの自治基本条例が作られているはずはありませんけれども、それぐらいこれをめぐるいろんな情報がウェブサイトにアップされているわけであります。東京の大都市圏では、本当にたくさんの特別区や市が自治基本条例を作り始めております。杉並区、多摩市、大和市、世田谷区だとかいろんなところが始めております。大阪でも吹田市とか岸和田市とかいろんなところが始めているわけで、恐らく自治基本条例を制定する方向に動いている自治体は100近くに及ぶのではないかと思います。

 それこそ、自治基本条例はいまやファッションになりつつありまして、自治基本条例のない自治体は遅れているといわれている。標準装備になってきたわけですね。だから、首長が「周りは皆自治基本条例を作っているのに、うちはない。恥ずかしから来年までに作れ。」というお達しを出して条例制定を促すというようなことすら起こり始めているということであります。ファッション的な面もありますけど、第一次分権改革期が切り開いた新しい可能性ではあります。しかし、他方では国の政策によって強制的に小さな規模の自治体を取り潰しにしちゃうというようなことが同時に進んでいる。これはいったい何でしょうか、もちろん機関委任事務というのはなくなってしまいましたし、強制的な国の関与でもない。指針を出しているに過ぎないんですがその指針は、到底単なる拘束力のない指針と受け止められているのではない。私もこの2年ほどはこの合併問題に巻き込まれて沢山の山村を回ってまいりました。

 それから規制緩和、規制改革というのもずいぶん広がしまして、いわゆる「特区」がいっぱいでき始めました。沖縄は那覇空港地区の自由貿易地域をはじめとして、特区がいくつか作られたわけですけれども、この特区がぜんぜん珍しくなくなってきたということですね。これはグローバリゼーションや市場化に対応する日本の経済改革の動きですが、これだけ特区が広がると規制緩和を進めて自由化するだけでは、地域に企業が入ってくるというよりは、むしろどんどん出て行ってしまうという結果になってしまいかねません。それよりは、あんまり目に見えた力は持たないけど、その地域に昔からある資源とか、あるいは産業的な伝統というものを活かしてそれをグレードアップするというような内発的な経済開発の方が、オールマイティーな解決にはならないけれども、着実なアプローチになるのではないかという考え方も強まってきているわけです。例えば高知県の馬路村のように、ゆずの栽培から加工に至るまでの新しい産業をつくりだして、1200人ぐらいの小さな村が、年商30億に及ぶ収益を上げているわけです。これは決して単に、外に対して市場を開くということだけではないアプローチで行われている経済自立の試みだと言っていいのではないのかなと思います。いろんな新しい動きがここ数年の間に展開してきているわけでありまして、我々はこれを改めて鳥瞰し、整理をしながらこれからの沖縄のあり方について考えなければというふうに思っているわけであります。


3、地方自治のいま
 政治はいまポスト戦後の状況になってきているのではないかと思います。全国的に見て、いわゆる左翼とか、革新勢力とか言われていた勢力が地盤沈下をしているわけであります。かつては中央政府が保守勢力によって担われているとすれば、それに対する対抗勢力が地方の自治を担うというのがわかりやすい構造だったんですけれども、どうもそうではなくなってきている。それに変わって、市民グループがいろんな形で多くの地域で自治的なまちづくりでその力を発揮し始めているわけでありまして、例えば、徳島県だとか、あるいは島根県の宍道湖・中海だとか、それから熊本県の川辺川ダムだとか、長野県だとか、いろんなところで公共事業、ダムの建設とか河口堰の建設とか、湖の埋め立て干拓だとかいう公共事業、それも自然破壊的な公共事業を市民運動によってストップさせる。そのためには必要であれば、住民投票制度を直接請求によってつくらせるというような運動が、非常に広がってきているわけで、新しい市民型の政治モデルが日本列島の各地に姿を現してきているのではないかという気がいたします。

 また、市町村合併というものを契機にしまして、日本の地方自治の歴史の中でこれまで起こったことのないような新しい出来事が出てきているわけであります。市町村合併というのは、昭和の50年前の合併のときにも地域に血の雨が降ったというぐらい大きな紛争を巻き起こしたことは間違いないんですけども、しかしそれは、感情的なレベルの対立という性格が強かったと思います。しかし、今回の平成大合併の中では、例えば埼玉県の上尾市で住民投票によってさいたま市との合併をしないということを決定する。その過程で賛成派と反対派が一緒になって集会を開いて議論するというふうなことが行われたり、あるいは福島県の矢祭町で町議会を挙げて合併しないと堂々と理屈を立てて宣言する。「祖先から受け継いだ故郷矢祭をそっくりそのまま後世に受け継ぐことこそ、今生きている我々の役割だと考える」という思想や、理念を正面に打ち出して合併しないという考え方が表明される。「合併しない宣言」は非常に多くの自治体によって打ち出されました。

 2003年この2月に、私も多少関与して「小さくても輝く自治体フォーラム」というのをやりました。全国町村会のような団体、町村の組織はあるんですけれども、なかなか実質的に小規模自治体が意見交換するとか、横に繋がってアクションを起こしていくための受け皿にはなりにくい組織です。そこでもうちょっと実のある小規模自治体の連合をつくろうと考えまして、長野県の栄村という豪雪の村に、一番雪の多い2月に、全国の小規模自治体に集まってもらい、小規模自治体を強制的に合併させてしまうという今地方制度調査会が検討しているような案に反対して、小規模自治体の自立をめざすフォーラムのようなものを提案したのです。せいぜい100人から 150人ぐらい集まって話をして、できればテレビか新聞がそれを報道してくれればいいなというイメージでやってみたら、実に1,000人近い申し込みがあって、とうてい栄村では収容できないということで、400人近い人をお断りすることになりました。それでも600人あまりの人が集まって、東は北海道から南は奄美大島までたくさんの自治体の首長さんとか議員さん達が集まるフォーラムになりました。この9月に2回目のフォーラムを長野県の阿智村というところでやりました。今度はそんなに集まらないだろうと思っていたらやはり600人集まった。今回は沖縄の伊江村からも代表の方が参加してくださいまして、参加自治体数は前よりも増えたわけです。こういうお互いばらばらで、町村会というような枠組みがなければ集まらなかったような自治体が、自発的に集まって、地方自治制度の在り方について発言をし、お互いに自立してやっていくためにはどうしたらいいかという情報交換する。こういうことが行われるようになったということは、私は非常に画期的なことだと考えているわけでありまして、これもまた新しい自治の芽生えを示すものではないかと思います。

 先ほど申し上げました、自治基本条例の広がりということともあいまって、新しい自治の可能性が広がっていることの現われだと思います。
ところが残念なことに、この二つの動きの間にはまだ今のところねじれがございまして、市町村合併で悩み、苦渋に喘いでいる、どうやって自立のための財源を調達しようかと悩んでいるような自治体は、残念ながら自治基本条例を検討している暇もゆとりもありません。だからそういう所ではあまり自治基本条例は進んでいません。むしろ大都市圏周辺で、前向きに地方分権改革の成果を活かしてわが町の憲法をつくろうという自治体の間で自治基本条例が広がっているということになっているわけでこの二つの動きはピタッと噛み合っていているわけではない。そこに今の日本の地方自治を巡る光と影というのがあらわれているのではないのかという気がしています。


4、自治基本条例制度について
 そういった中で、沖縄の新しい自治のスタートラインをどう切っていくかということを考えなければいけないわけですが、沖縄自治研究会の自治基本条例案、モデル条例とそれを作っていく過程での議論を概観してまいりまして、大変強い印象を受けました。こんなことがよくやられたなというふうに改めて感心しております。一言でいって、これはフォーラム型の条例作りだと思います。多くの自治体の自治基本条例作りは、首長がないと恥ずかしいから作れと言い出して、行政主導で、一応学識経験者と公募による市民委員を入れて、策定委員会を設けてやっているパターンが非常に多いんですね。条例を作るなんていう仕事はやはり、行政のほうから案が出てきてそれに市民が意見を言って進んでいくというパターンが多いんですが、この沖縄の場合はフォーラム型でありまして、行政や議会からはとりあえず自立をして、市民グループ、自治体職員、議員の方、研究者の方々等が集まって、分担していろんな事項についての案を作って議論をする、ワークショップをやるというようなやり方を積み重ねていっているわけでありまして、これは極めてユニークな例です。これに類するものというとおそらく、東京の多摩市の基本条例作りぐらいだろうと思います。他にも、行政主導でスタートしても市民委員を公募したら何百人と応募者が出てきて、その人たちを誰はいい、誰はだめというふうに選別できないということになって、公募委員が何百人もいて条例案を議論している例もあります。
 それでも沖縄のフォーラム型の市民サイドからの、立案は珍しいと言っていいと思います。しかしそれだけにこれからが大変で、せっかくモデル条例案ができたけれども、これを棚の上に上げて飾っておくなら簡単ですけれども、実際に自治体でこれを議会を通して制定してもらう、実現のためのレールに乗せていくというのはなかなか難しい問題だと思います。

 このモデル条例案の中身についていいますと、まず沖縄的な考え方というか、沖縄としての自治の理念、平和の理念、環境保全の理念などを謳った宣言的な規定というものと、それからある程度規範力を持ったルールというものとが混然一体になって作られている。ここに非常に面白い特徴があると思います。

 この夏沖縄に来られましたニセコの逢坂誠二町長のところに、我々も去年行きまして、まちづくり基本条例について数時間話し込んできたことがあります。

 ニセコの条例の作り方というのは、最初は行政法の専門家とかいろんな人を入れてやっていたので、重たい、条例としての整合性あるいはルールとしての規範力とかいうものを持った条例を求めていたようです。けれどもニセコは、情報公開条例、情報共有のためのルール作りの中で教訓をえておりまして、あんまり事細かにいろんな手続きとかルールとか、場合によっては罰則とかいうものを決めた条例を作っちゃうと、人口4千人の自治体の中でその条例を運用していくのが難しく、重たすぎるという話になっていったようでありまして、まちづくり基本条例は宣言的な部分が多くなったようです。直接市民とか企業に対して義務を負わせるとか、あるいは規制をするとか罰則を科すとか、新しい料金を課するとか、そういう部分の少ない申し合わせやプログラム規定をたくさん盛り込んだような条例になっています。軽いというと語弊はありますけど、スタートラインでは重たすぎる、みんなががんじがらめになっちゃうような条例を作っちゃうとだめだということで、割合風とおしのいい条例を作るということになっていったようであります。

 それに比べますと、この沖縄自治研究会のモデル条例は結構ルールというか、「ねばならぬ」規定があるんですね。もちろん、「ねばならぬ」といってもそんなに事細かに規定をしているわけではないんですけれども、やはり、「ねばならぬ」といわれると、行政とか首長とかはかなりの程度の規制を受けるわけでありまして、「ねばならぬ」規定を根拠にして訴訟でも起こされたら、大変だと思うような中身を持っているように思います。また、これは多摩市の条例もそうですけど、全編が「です」・「ます」口調で書かれておりまして、市民にとって非常になじみやすいというか、市民感覚、市民の日常感覚の中に咀しゃくできるような条例にしようという心遣いが全体に貫かれているように思いまして、その点は大変強い印象を受けたわけであります。

 それから沖縄らしさというか、沖縄だからこういう条例を作るんだという考え方が、前文の文章や平和的生存権、環境権だとか、基本的人権を守る権利、それから自治体外交についての権利のような条項の中に盛り込まれていると思うわけでありまして、これはやはり沖縄の心・沖縄精神を消すのではなく、しっかりと具体的に盛り込んだ条例になっているなというふうに強く感じたわけです。

 私は、憲法というものはやはり人間が歴史のある時代の中で作り出す基本的なルールですから時代を大きく映し、その時の状況、その時の国の課題、国民の理念を映し出す鏡だと考えているわけです。1687年にイギリスで名誉革命が起こって、権利章典というものが作られます。このイギリスの憲法的な規定・規範は、自由権の尊重に一番重要な力点を置いているわけですね。これはやはり、国王によって税金を同意なしに課せられるとか、あるいは国王によって勝手に国の宗教というものが変えられてしまうというような経験の中から、市民の同意なしに市民の自由を侵すようなことを権力がやってはならないという理念が生まれ、イギリスの近代憲法が作られてきたわけであります。ですから、イギリスの憲法というのは自由というものを非常に強調する憲法になっているわけですね。

 それから1世紀後にフランス革命によって作られた、フランスの憲法というのは、これはどちらかといえば人民主権に非常に力点を置いた憲法になっています。これはブルボン王朝の絶対王政をひっくり返して、人民が政治の主人公だということを表明しようとしたからです。

 戦後の多くの国々の憲法でもそうです。イタリア憲法は労働権が中心になって作られた憲法です。それに対して、日本の憲法は平和憲法であるという点に、一番大きな特色があると思います。それはやはり、それぞれの国がくぐった歴史的な経験、その中で温めてきた国民の様々な思いというのが凝縮されて憲法が作られてくるからです。憲法というのは決して無色透明で、時空を超えてどこででも成り立つような普遍性を持ったものとしてではなく、普遍的な基本的人権の尊重というような考え方を盛り込みながらも、時代と国や地域の顔というものを持った基本法として作られてきたのではないかと思います。そういう意味で、日本の中でもほかの地域の住民たちが経験したことのない歴史的経験をくぐってきた沖縄が作る地域憲法というのは、そういう特色をちゃんとその中に盛り込んでいなければならないと思います。そういう考え方がこのモデル条例案の中にはきちんと盛り込まれているような気がいたします。

 「基本的人権を守る権利」というのが盛りこまれていますが、こんな規定はおそらく、内閣法制局に言わせると成り立たないよということになるのではないでしょうか。基本的人権は国家や国民が尊重するものであって、「基本的人権を守る権利」なんていうような言葉を使うのはおかしいよというでしょう。だけれども、これは私の勝手な読み方かもしれませんけれども、この言葉は沖縄の状況、沖縄の置かれている事態を反映されているんですね。沖縄というのは3つの権力に取り囲まれているわけです。米軍と日本政府とそして沖縄県をはじめとする自治体と3つの公権力というのがそこにあるわけです。そのなかで、米軍とか日本の中央政府によって、沖縄の住民の権利、基本的人権が侵される。それを自治体をよりどころにしながら、基本的人権を守らせる。守らせる権利というのをこの条例に盛り込まないと、単に平板に人権を尊重する義務というだけでは収まらない人権構造というものを持っている。そのことが非常によく反映されているわけで、言葉をこのまま残すかどうかは別にして、非常に重要な特徴だと私は思います。

 それから、このモデル条例案の中には、憲法とか今の地方自治法の枠からはみ出すような考え方がいくつか盛り込まれていたわけで、例えば、議会の権限を強化して、議案の提出と議決についての権利を議会固有の権利、権限であるというふうに謳おうという考え方が議論されたわけです。地方自治法には首長や、議会というのはそれぞれ別に規定されていまして、首長のやるべき事項の中に議会に対する議案の提出というのが書いてあるわけで、その首長の議案提出権を否定するということになってしまうわけですね。議案の提出とか議決は全部議会の中でやっちゃうという考え方は今の自治法に完全にバッティングするということになります。しかし、それをあえてやろうというのですね。つまり、今のような首長、議会のいわゆる二元代表性といわれている制度は本当にいいのだろうか。沖縄が本当に新しい統治制度を条例で選ぶことができるとすれば、必ずしも二元代表制的な構造をとるのではなくて、議会を中心とした地方自治の在り方というものを考えたいということになるのでしょうか。あるいは、二元代表制をもっと徹底させて、アメリカの大統領制のように、大統領府は大統領府、議会は議会で独立させるという意見もとれます。アメリカでも議案の提出と、議決の権限は議会が全部持っていますね。そして大統領は議会に対して直接法案を提出する権限はありません。そういう形で執行権と立法権を分けて、はっきり独立させるという考え方なのかもしれません。島袋さんの解説を拝見しました。半分賛成ですけれども、やはりよく解らない。こういう統治構造の制度設計の全体的な思想というか、論理構造を聞きたいなという感じが私はいたします。

 それから、首長に選挙公約の達成状況についてちゃんと報告させるという、規定を条例に盛り込むのはどうかなという感じがいたします。つまり、政治的責任と行政的責任の違いが区切りされずにいないのではないでしょうか。条例で首長に負わせる責任というのはやはり、執行機関としての責任であって、選挙運動の中でどんな公約をして、これをどこまで達成したかという、政治責任を条例の中で規定するというのはちょっとどうかなというふうに思っております。ただ、今のマニフェスト運動なんかとの関係で言いますと、そういうようなことを政治的なルールにしていくということは当然ありうることだというふうに思います。

 後は少しとばしまして、情報共有とか行政評価とかいうのは、これはなんとなく自治基本条例の標準装備をやっぱり沖縄の条例も装備することにしたかなという感じがいたします。もう少し独自の味をつけてください、といいたいような感じもするわけです。例えば、行政評価で、これも大体仕組みとしては評価の基準を作って、各事業ごとの自己点検をして改革していく。その結果を公開するという仕組みなんですけれど、評価の基準というのが、達成度や費用対効果、効率中心になっているわけです。

 三重県なんかはさすがにそんな狭い考え方をとっていないわけで、あくまでその評価の一番根本的な基準は、総合計画の基本的な目標に適っているかどうかであり、それを評価の一番の眼目にするという考え方をとっているのです。ただ、現場ではそうはいかないので、やはり達成度と費用対効果で評価をしてしまうということになりがちで、結局は成果を挙げ効率をよくするということに、各部局が血道をあげなければならないということになりがちであります。これは本末転倒のような気もするわけで、そうならないための沖縄独自の思想を何とか盛り込めると面白いなと思います。

 それから、私が一番注目いたしましたのは、対外関係です。住民主権が基地に及ぶという考え方、それから自治体もまた外交の主体であるという考え方ですね。これを抽象的であれ条例の中に表現するというようなことは大変なことであります。基地に関する事柄というのは、これは国の直接執行事務ということになるわけで、高度に主権的な作用として考えられていることであります。それを、その中にやはり、自治体が踏み込んでいこうというわけで、これは大変重要な提案だと思います。

 しかし、私は、沖縄はこの領域に踏み込んでいかないとだめなんだろうと思うわけです。単に基地の土地の使用だけではなく、アメリカ軍の軍人軍属が行う日常的な行動に至るまで条例によって義務を負わせたり、規制したりするようなことをある程度やらなければ、沖縄という地域を全体としてひとつのまとまりある、秩序のある地域社会として管理していくことはできないわけです。そういう意味で基地や、そこにいる人たちもちゃんと沖縄のルールには従ってもらいます。沖縄の決めた条例には従ってもらいますよということをはっきりさせる。空挺部隊のパラシュート降下訓練の中で畑に飛び込んじゃって、作物を荒らしたということになったら、不法侵入か財産権の侵害の不法行為なんですかね。とにかくそういうことでちゃんと責任を取ってもらいますよというようなことにならないと、仮に基地が当分残るとしても、基地と地域社会との間の共存はありえないわけで、そうすると実は、日米地位協定に基づく米軍と日本との間の話し合いの中に実は自治体が入っていかないとだめだ、というふうになるような気が私はいたします。

 そういう意味で、このことをモデル条例案の中に、抽象的ではありますけども書き込まれたということは、非常に重要なことだと思っています。

 それから、ニセコの条例なんかが参考になると思うのですが、沖縄というのはやはりゆいまーるを中心としたコミュニティーの伝統というものが、非常に生きている地域でありますので、そういうコミュニティーの伝統というものを尊重して子孫にまで伝えていきましょうという規定が条例の中にあってもいいのではないかという気がします。沖縄の文化を大事にしてそれを育てていきましょうという宣言的規定もやはり必要で、そういうものがないと寂しいなというような感じがいたします。




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